月を超えろ(奥田民生)

「上の空な感じ」ってありませんか?自分が今、「上の空だな〜」って感じ。


私、恥ずかしながら幼いの頃から現在に至るまで、ほぼ常時そんな状態でおりまして、自分でも集中力散漫だなと思うのですが、言い訳がましいことを言うと、そんなときって必ずしもボヤ〜っとしているわけじゃないのです。然はあれどカチッとしているわけでもない。何にも考えてないことはないんだけど、一つのことについてじっくり考られなくて、その一つの核の周縁部分の、色々な、脈略の希薄な事柄の群れの表面上を次々と漉くって漉くってを繰り返しているのです。

他所様が見聞きすると怪しい精神世界を描写しているようにも受け止められるでしょうし、知己の皆様が見聞きすると心配されそうな予感もありますが、それは決して大げさな話でなくとも、実際に起こっている(きた)ことなのです。


どうしてそんな雲を掴むような話をするために苦労しているのか、そもそもどうしてそんな話を始めたのかと申しますと、先日読んだ長嶋有という人の小説に、そのような上の空な感触と非常に近しいものが感じられて、ちょっと共感したからです。

私は小説を読むことが殆ど無いためこの分野については場の空気が読めず、失笑を買うことがままあるので、氏の小説についても独りよがりに感想を語るのはとても恐ろしく憚られるのですが、氏の小説は結果として伝わってくることがそれはそれとして確固として在るのですが、そこに至るまでに積み重ねられる個別の情景や描写は具体的ではあっても、とても間接的だったり、脈略がなかったりするように感じたのです。そしてその積み重ねの部分が、自分が上の空で居るときの感覚と合致したのです。わりと見事に。

そんな風にして長嶋氏の小説に対して覚えた共感に近い感覚を覚えさせられる歌詞があります。


音楽を聴き始めた頃は歌詞なんてものはもう完全に付属品で、興味の対象外でした。そもそも英語ができなかったからこそ英語の歌にあこがれていたこともあり、詩の意味等知る由も無かったのですが、だからと言って意味の分かる邦楽の歌詞について深く考えることなど皆無でした。当時、身の回りの手の届く範囲には「ドキドキすること やめられない Oh Yeah! いますぐKiss Me ヲウヲウ」みたいな歌詞しかなかったですし。

もっと幼かった頃に金髪先生*1と出会っていれば、あのバンドやその歌手のことももっと素直に好きになれていたかもしれません。その半面で、自分の素地も出来上がる前に何処かの誰かさんに感化されてしまい、"Rockin' on"もしくは"Buurn!!"あたり*2に自分の思いの丈を投稿してしまうような人間に成り下がっていたのではないかと想像すると、それはそれでゾッとします。『金髪先生』が深夜に放映されていたのは色んな意味で適切だったのかもしれません。

ともあれ、馬齢を重ねるに連れて、自分個人として色々と考えるところや考えたくないところなどと出て来てしまうものです。個人主義の華やかなりし昨今はとりわけ、「歌詞はどうでもいい」などという態度で歌を楽しむことは難しくなってきてると思います。


どんな歌詞は許容できて、どんな歌詞が許容できないのか。其処ら辺については大人になった今も明確に説明はできないのですが、結局のところ、各々が生きてきた文脈を織り込んだ無数の変数が組み込まれた数式のようなもので決まるのではないでしょうか。

かつて、真心ブラザーズだったか「言いたいことが何も無い」というようなことを歌っているのを聞いたことがあります。そんなに消極的なことをそこまで積極的に訴えているパラドックスに軽い感動を覚えたことは事実ですが、実のところとしては「言いたいこと」を直接前面に出して訴える歌詞よりは、その周辺をあれでもないこれでもないと散発的に描写する歌詞の方が私の場合はよっぽど直接的に心に響きます。それは恐らく上の空で居ることが多いことが原因なのではないかと思い立ってこれを書いてます。


David Bowieが名作"Ziggy Stardust"の冒頭("Five Years")で歌う歌詞の一行一行はとても具体的ですが、脈略が強く感じられる表現群ではありません。ただ、結果として、それらはボンヤリとはしていても一つの画となり環となった世界観を映し出します。

何ゆえ、その世界観にそこまでに魅せられるのかは、偶然にあるいは体よく思い込まされているだけとも考えられます。でも結局それは、長嶋氏の小説から感じた上の空な感じと非常に近しいものであることは変わりない気がするのです。


そんな上の空な感触は、"Five Years"と時近くして作られたであろう"Life on Mars"という歌の歌詞からもまた感じられます。この歌に至っては、詩の主人公と思しき少女本人が完全に上の空です。大サビで感情的なメロディに乗せてBowieが歌うのは、彼女が「悲しいほどに退屈な映画」から切り取った数々の描写(ダンスホールで乱闘する水兵、洞穴に住んでる原始人、無実の輩を叩きのめす保安官)です。それらを最終的に締めくくる文句が一言、"Is there life on Mars?"「火星に生き物っているんだろうか?」と。見事なまでに上の空。

この歌の歌詞の曖昧さはやはり世界各国のBowieファンの皆さんを悩ませているようで、インターネット上でも様々な意見が闘わされていました。有る人はこの歌のテーマは「逃避」だと言い、ある人は「想像」だと言い、ある人はAnti-Capitalismだと言う。あまつさえ、この歌に引っ掛けてブッシュ大統領批判を始める人もいる。日本のレコード会社が正式にこの歌につけた邦題が「火星の生活」であることを引き合いに出して、阿呆ではないのかと批判している方もおられました。

「火星の生活」と「火星上の生物」。結局、私としてはどちらでも良いような気がします。それはスタイルとして具体的な意味やイメージを求めていないからです。

目の前で起こっていることとは全く脈略なく、ふと、上の空に思うわけです。「火星にも生活があるのだろうか?」と。「火星に生き物っているんだろうか?」と。考えることはどっちでもよくて、むしろその「ふと思う」ところが重要なわけです。むしろ、この"Life on Mars"という歌詞そのものの意味について、「正解」が与えられる方が興醒めだというのが、自分の気持ちに正直なところです*3


結局、ここまで長々とかけて、何を自分は考え、何を言葉にしようと試みていたのか。一つには、この奥田民生の「月を越えろ」というシングルにしれっと収録されている"Mother"という曲が何ゆえにこんなにも魅力的に感じるのか、ということを説明しようとしたらどうなるかということに尽きると思います。


月を超えろ

月を超えろ

*1:ドリアン助川扮する教師。サブカル臭漂うラインアップの生徒達(例:パンチUFO、桜木ルイ、ダイナマイト関西etc)に英米ROCKの名曲の歌詞を解説する、というような番組がかつてあった。ちなみに番組セットの教室には"Boys Be Sid Vicious"との格言が掲げられていた。上手いこと言うもんだなと感動した。

*2:つまりは渋谷陽一か酒井康あたり。

*3:この"Life on Mars"というBowieの曲ですが、Frank Sinatraの作品として有名な"My Way"との類似性がよく取り沙汰されます。実際に知ってみて目からウロコだったのですがこの曲の背景には僕がこれまでに知らなかったことが幾つもあったことを知りました:まず、そもそも"My Way"とはPaul Ankaの作曲した曲ではなく、"Comme, D'Habitude"という別人の、それもClaude Francoisという「フランス」の国民的歌手のオリジナルソングだったそうで。その"Comme, D'Habitude"David Bowieが英語の歌詞をPaul Ankaよりも先に付けていたが、リリースの機会がなかった。ほどなくPaul Ankaが曲の権利を買いとって"My Way"として書き直してリリースした。"Life on Mars"は、収録アルバム"Hunky Dory"のライナーノーツではFrank Sinatraにインスパイアされた曲だとされていたが、正味な話、一発当て損ねた腹いせでBowieが"My Way"のパロディを書いたというところが真相だという説です。それらの情報を総合すると、この歌の歌詞であれこれ考えを巡らせて、大騒ぎしていたことに軽い虚しさを感じずもがなですが、この曲の大サビを『ブロードウェイ・ミュージカルとサルバドール・ダリの絵画の異種交配』と評したBBCサイトの表現に感服いたしました。